2020/06/25
画像:平家物語絵巻 巻第十一 中央公論社 1992、P151
平家の兵船に攻め寄せる源氏軍
女房たちに敗戦を告げる知盛
慌てわめく女房たち
P153
二位の尼時子は、日ごろからすでに覚悟していたことなので、鈍色(にびいろ)(青みをおびた灰色)の二枚重ねの衣をかぶり、練絹(ねりぎぬ)の袴(はかま)の股立(ももだ)ちを高くからげて腰帯に挟み、神璽(しんじ)(皇位のしるしの曲玉(まがたま))を小脇(こわき)に抱きかかえ、宝剣を腰にさして、幼い安徳天皇を抱き上げると、「この身は女であるが、敵に捕らえられはいたしませぬ。帝(みかど)のお供をいたそうと思う。志のある方々(かたがた)は、急いでお続きなされよ」と言いながら、静かに舷(ふなばた)のほうへ歩み出た。
帝は、今年、八歳になられたばかり。だが、年よりもはるかに大人(おとな)びておいでになり、姿形(すがたかたち)が美しく、辺りも照り輝くばかりの気品が備わっている。黒い髪は、背中の下まで垂れて、ゆらりらと美しく波を打っておられる。帝は、事のなりゆきに驚かれた様子で、「これ、尼前(あまぜ)よ。われをいずくに連れていこうというのじゃ」とおっしゃる。
二位の尼は、この幼い帝のほうを向いて、涙をはらはらと流しながら、「帝は、まだご存じではござりませぬか。
前世で十善の戒行(かいぎょう)をお積みなされたご功徳によって、いまは一天万乗の君にお生まれになりましたが、悪縁に引かれて、ご運が早(は)やお尽きなされたのでざりまする。まずは、東の方(かた)をお向きになられて、伊勢大神宮にお別れ申し上げ、その後は、西の空に向かわれて、西方浄土の弥陀(みだ)の国にお迎えいただかれるよう祈念なさって、ご念仏お唱えなされませ。この国は、粟粒(あわつぶ)を撒(ま)き散らしたような、辺鄙(へんぴ)な小さな国で、いやな所でござりまする。あの波の下にこそは、極楽浄土と申すりっぱな都がござります。これから帝を、そこへお連れいたしましよう」と、さまざまにお慰め申し上げた。
山鳩(やまばと)色(黄みがかった萌黄(もえぎ)色)の御衣(おんぞ)を着用して、角髪(びんずら)を結っておいでの幼帝は、顔中を涙でいっぱいにされて、小さなかわいらしい両手を合わせると、まず東に向かい、伊勢大神宮や正八幡宮(しょうはちまんぐう)に別れをお告げになる。終わると西に向かい、念仏を唱えられたので、二位の尼は、すぐさま帝の身体を抱き上げると、「波の底にも、都がござりまするぞ」とお慰めしながら、深い海の底にお沈みになられたのである。
帝とともに入水する二位の尼
御座船の中では、二位の尼が、幼い安徳天皇をさまざまに慰めている。「これ尼前、朕をいずこへ連れていこうというのじゃ」と不安顔に帝がお尋ねになる。
尼時子は、涙を抑えると、「帝には悪縁にお引かれなされて、もはやご運がお尽きなされたのでござりまする。このような粟粒のごとき小さな国よりも、あの波の下にこそ、極楽浄土というりっぱな都がござりますれば、そこへお供つかまつりましょう」と答える。
まわりを取り囲んでいる女房たちも、さめざめと泣き濡れている。つと舷(ふなばた)に寄ると、安徳天皇は東の方を遥拝し、「南無(なむ)八幡大菩薩(だいぼさつ)」と、小さな囗で名号(みょうごう)を唱えはじめた。
船上の様子を遠望していた源氏の軍船が、やがて、次々に集まってくるのであった。
画像:平家物語絵巻 巻第十一 中央公論社 1992、P156
先帝の御入水 (四)
悲しいことながら、無常の春の風は、一瞬の間に、花のように美しい主上のお姿を吹き散らし、痛々しいことながら、分段生死(ぶんだんしょうじ)(六道に輪廻(りんね)する凡夫(ぼんぷ)の生死)の荒波が、帝のご尊体を海底に沈め奉ったのである。宮殿は〈長生殿〉と名づけ、門は〈不老門〉と号して、帝の寿命長遠(ちょうおん)を祈ったが、まだ十歳にもならぬ幼(いたい)けな身で、海底の水屑(みくず)と消えておしまいになった。
十善の帝位にあるお方のめぐりあわせは、言葉では尽くせぬほどのものである。雲の上の竜が天降(あまくだ)って、海底の魚となってしまわれたのである。昔はりっぱな宮殿の中で、大臣・公卿(くぎょう)たちの朝臣にかしずかれておいでであったのに、いまは、船の中、波の下に、とうとうあえない最期をとげられたのは、まことに悲しいかぎりであった。
「先帝の御入水」と銘打った箇所であるが、先帝の御入水にふさわしい場面は平家物語絵巻には表れていない。現実にどうであったかという記述は、『吾妻鏡』に依らざるをえない。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録であるから、これ以外には「真実」はありえない。
国立国会図書館デジタルコレクションから該当部分を取り出そう。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920980
吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 上卷
国書刊行会 編
1915
書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)000001210137の場面
コマ番号74/281
(元暦二年三月)廿四日、丁未、於長門國赤間關壇浦海上、源平相逢、各隔三町、艚向舟船、平家五百餘艘分三手、以山峨兵藤次秀遠幷松浦黨等爲大將軍、挑戰于源氏之將帥、及午刻平氏終敗傾、二品禪尼持寳劔、按察局奉抱先帝、〔春秋八歳、〕共以没海底、建禮門院〔藤重御衣、〕入水御之處、渡部黨源五馬允、以熊手奉取之、按察大納言局同存命、但先帝終不令浮御、若宮〔今上兄、〕者御存命云々、前中納言〔教盛、号門脇、〕入水。前參議〔經盛、〕出戰塲、至陸地出家、立還又沈波底、新三位中將〔資盛〕、前少將有盛朝臣等同没水。前内府、〔宗盛〕、右衛門督〔淸宗〕等者、爲伊勢三郎能盛被生虜、其後軍士等亂入御船、或者欲奉開賢所、于時兩眼忽暗、而神心惘然、平大納言〔時忠〕、加制止之間、彼等退去訖。是尊
注1:按察使局伊勢
注2:読み下し文並びに現代語訳については『吾妻鏡入門第四巻』元暦二年三月を参照せよ。
「二品禪尼持寳劔、按察局奉抱先帝、〔春秋八歳、〕共以没海底、」と記述されている。つまり、帝の祖母である二品禪尼(にほんのぜんに)が三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉持し、大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)(叔父上である平重衡の妻)が安徳天皇(八歳)を抱きかかえ、海底に没した。
これが幕府の公式記録である。平家物語ならびに同絵巻とは細部が異なっているが、
1. 安徳天皇は水死
2. 二位の尼(清盛の妻)も水死
3. 草薙剣(くさなぎのつるぎ)は水中に消えた。
というのが公式記録ということになる。