2020/06/25
あとで述べるが、下関の地元では(安徳天皇の遺体は漁師によって引き上げられたという)「殯斂」伝説があって、絵巻から読み取れる朧げな史実を「事実」として現代に定着させてくれる。有難いことだ。一連の記事を読んでいただこう。
画像:安徳天皇
ここに、殯斂(ひんれん)とは「死者を埋葬するまで、棺に納めてしばらく安置すること。かりもがり。」(デジタル大辞泉)を意味しています。
壇ノ浦の合戦後、中島組と称する網元が、丸太船四隻に分乗して網で出漁中、安徳天皇の遺体を網で拾いあげ、安徳天皇の遺体を「御浜殿」に引き上げて安置した。すなわち「御浜殿」が殯斂の地というわけです。(参照:)
詳細は、上のブログをお読みいただくのがベストでしょう。
これを要約すれば、
1. 第八十一代安徳天皇は寿永四年(1185)三月二十四日源平船合戦において、平家一門と下関壇ノ浦に入水し給えり。そのご尊骸は小門(おど)海峡に流れ着き、
2. 中島組という名前の地元の網元が、丸太船四隻に分乗して網で出漁中、安徳天皇の遺体をいわし網で拾いあげ、
画像:一部修正
3. 中島組はすぐに漁を中止し、安徳天皇の遺体を安置した。その時に舟をつけたところが「水揚げ場」、遺体を安置したのが「御浜殿」。従って、この場所が殯斂の地というわけ。現在、「御浜殿」は赤間神宮小門御旅所となっている。
画像:GoogleMap,2020 赤間神宮小門御旅所
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4. 以来、中島家は隆盛し、この地域の漁業権を得ることとなった。その後、安徳天皇を弔うために紅石山(べにしやま)麓の阿弥陀寺(現在の、赤間神宮)境内に安徳天皇阿弥陀寺陵が造られた。現在、赤間神宮先帝祭の上臈参拝の際には、中島家一門が先頭に立ってお参りし、お供えなどを行う。上臈参拝の翌日(5月4日)に御神幸が行われ、中島家の子孫が小門御旅所で御神幸の行列を迎えて祭事が行われる。かつては上臈道中は、安徳天皇の遺骸を網で引きあげたという縁で伊崎町の中島家から出ていたが、今は同町の西部公民館から出発している。
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こういう伝承に基づいた地元の論理は首尾一貫しており、慣習的な上臈参拝の翌日(5月4日)に行われる御神幸の行列が史実を裏付けているように見える。
つまり、安徳天皇は元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、みもすそ川沖の関門海峡で入水され、西行する急流に流されて、小瀬戸と呼ばれる小門海峡に流れ込み、網元中島組によるイワシ漁の網にかかった。御遺体が引き上げられた場所が安徳天皇殯斂の地であり、そこに仮安置されたあと、阿弥陀寺の境内に葬られた。この埋葬場所が現在の安徳天皇擬陵である・・・・ということになる。
私自身は小門海峡まで足を延ばしたわけではないが、GoogleMapを調べると、なるほど確かに赤間神社小門御旅所は存在している。壇ノ浦合戦の時海流は西に流れていたのだから、御遺体が小門海峡に入り込んだという説もいかにももっともだ。
埋葬地以外に陵が治定された御陵を擬陵と呼称するようであるが説明は次にまかせたい。赤間神宮の安徳天皇擬陵が墳墓として治定される(明治22年)まえに、明治16年に宮内庁による早とちりがあり、擬陵がほかに3地点決定されていたから、というのが理由のようですが、このような宮内庁の官僚主義は「醜い」ですね。改定すべきです。
私自身は今回初めて上のような下関の事情を知り、感銘を受けました。下関に足を延ばして「良かった」と思いました。歴史を肌で感じることができた、と考えています。
写真:赤間神宮社務所の裏にある宝物殿
安徳天皇縁起絵図の内、壇ノ浦入水を拝観したかったのだが、宝物殿には展覧されていなかった。残念。
画像:壇ノ浦入水部分拡大図