2020/06/17
岡山の林原美術館所蔵の『平家物語絵巻』から壇ノ浦の部分を拝借して見せていただくことにしよう。
時代は平安時代末期、元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)。場所は長門国赤間関壇ノ浦。
展開図では人物が小さくなるので、区分けをして拡大をすると、
白旗を拝する義経たち
画面は、白旗と海豚の奇瑞異変を描いている。
まず、画面右側が源氏の船団。舳先(へさき)を並べた中央の軍船が、判官義経の船。白旗の下降に、八幡大菩薩の影向(ようごう)を感得した義経は、兜を脱ぎ、手を洗い、身を清めると、白旗に向かって、うやうやしく礼拝した。「南無(なむ)八幡大菩薩。われらを勝ち戦(いくさ)に導かせたまえ」と祈請した。
船団の兵士たちも、義経にならい、いっせいに深い祈りを捧(ささ)げるのであった。
画面中央の霞形(かすみがた)の左に描かれるのは、平家の軍団。沖合から、無慮二千匹とも数える海豚が、海の底から湧(わ)き出したように遊泳しながら、平家の軍船に近づいてきた。辺りの海を墨黒々と染めたような海豚の大群に、平家の公達(きんだち)も軍兵も驚いた。
前内大臣宗盛が、「陰陽(おんみょうの)小博士晴信をこれへ召せ」と命じる。「時ならぬ海豚の大群の出現、なんとしたるぞ。これは、わが平家にとって吉か凶か、しかと占ってみよ」と下知する。
中央、入母屋(いりもや)造りの屋形の下に、宗盛と晴信の姿が見える。
吉凶を占う晴信
平家勢が見守るなか、宗盛の命を受けた晴信は、すぐさま吉凶を占った。
晴信は、「このまま、この海豚の群れが、味方の船の下を泳ぎ抜けるとあれば、一大事。平家のご運も、もはやこれまでと存じまする」と、占いの結果を報告する。
その晴信の声も半ばに、海豚の大群は、平家の船団の下を泳ぎ通っていったのである。
(解説・写真共に平家物語絵巻 巻第十一 中央公論社 1992、P146∼148)
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平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。
注:とても愚鈍な男と評判だった男。入水したが死にきれず、捕らえられて鎌倉で頼朝の前に引き出され、助命嘆願したが受け入れられず、近江国篠原宿で斬首された。
さあこれで、下関海峡には河豚(ふく)と海豚(いるか)が生息することがわかりました。共に漢語なのです。中国では「ふく」は揚子江のような大河にも棲むので、いまでも河豚という字が充てられているそうです。
海豚を調べるのに、わざわざ平家物語絵巻を引き合いにだしたので、ついでに赤間神宮隣に位置する安徳天皇の擬陵についても調べておきましょう。