2021/12/06
『勝鬘経義疏』の中村訳をまず三度読んでみることとしよう。三度読めば、使われているその当時の哲学用語がなんとなく分かってくる。これは形象文字である漢字の効用であるかもしれぬ。そのものずばりの意味合いではないが、なにを意味しようとしているのではないかな、と推定ができるようになってくる。
写真:象眼几何(幾何学)紋方壷
Square Hu (Wine Vessel) with inlaid geometric pattern
戦国晩期(紀元前4世紀中頃-紀元前221年)
上海博物館
2005 11 21撮影
高度な装飾文化が発達していたことが伺われる。
勝鬘経義疏で使われている仏教哲学用語の意味がおおまかに把握できた段階で、次のように、最後から逆読みするとこのお経の本旨が読めてくる。
最後の章、結語は、仏(釈尊)がこの経典に名前をつけている。
『勝鬘夫人師子吼経』にするから、勝鬘夫人よ、この経を広く流布せよ、と仏が勝鬘夫人に命じておられる。
その一つ前の章、第十四 如来真子章は、この経が大乗仏教のコアをなしていて、理解すれば、ご利益が生ずるが、その理解の仕方は、次の三つである。このうちのどれでもよい、と仏が言われる。すなわち、
1. 「空智」を自分みずから実践体験し成就すること。
2. 勝鬘夫人が述べ、仏が承認された「空智」を理解してそれに随うこと。
3. 「空智」を理解できないまま、ひたすら釈迦を尊崇すること。
1. は、「空智」という核心を、求道者が修行の末に到達できる目標として設定していることをしめす。それは求道者による到達が可能な真理である、と説いている。
では、どのようにすれば、体験し成就することができるのか。
それは、第十三章 自性清浄章の最後の部分で述べられている。次の順番で成就するのである。(現代では、座禅で行われている「意識の集中」状態とか、禅定の状態とかを想像していただければよいと思う。)
1. 「根」というのは六種類の感覚器官、眼、耳、鼻、舌、身、意であるが、それぞれの感覚作用と識別作用と識別する対象とを注意深く観察する。
2. これらの感覚がどこからきて、どこに帰着するのか、を一一分析する。(するとある日、分析が終了するころ、突然明覚に到達する。これが阿羅漢の到達する「悟り」である。)
3. 阿羅漢の「悟り」は有余の涅槃である。けがれの残る「悟り」である。そこで、阿羅漢の「悟り」では包括できない残りの煩悩をすべて注意深く観察する。
4. すると、(死の「滅」に到達し、最終的に価値の転換というプロセスを通して)無余の涅槃に到達する。ここではじめて自由自在な世界(「空智」)に到達する。「十方世界是全身」となる。
5. このような過程を経ると、阿羅漢(小乗仏教者)、辟支仏(独学者)ならびに第七地以下の求道者の到達するさとりと、第八地以上の求道者が到達するさとりの差が明確に判別できるようになる。第八地以上の人たちが到達するさとりが大乗仏教哲学のコアである。
すなわち、阿羅漢のさとりも、大乗のさとり「空智」もすべてわれわれの感覚、考え、すなわち煩悩のなかに初めから内蔵されているのである。それゆえに、如来蔵という。如来は初めからわれわれの身体に内蔵されている。
さらにひとつ前の章、第十二章 顚倒真実章は、これら二つのさとりは、生と死の二つであることを明らかにする。すなわち、生(A)と死(B)が如来蔵のコアなのである。生命と死がコアなのであるから、ここに説かれる「空智」とは、人間の哲学であると同時に、生命体すべてに共通する哲学であることを意味する。また、如来蔵は、生命と死の一見矛盾するふたつの要素をお互いに調和する存在であると規定する。従い、なにものにも捕らわれることのない、まったき自由の境地が醸成される。解脱である。真諦である。一方、小乗仏教の実践者である阿羅漢の「悟り」は生命である。生命だけを説く。これでは片手落ちである。さらに「死」の考察がなされなければならない。
第十一 一依章は、四聖諦には二つのタイプがあることを説明する。生命を証する四聖諦と、死の四聖諦である。この二つの四聖諦はベクトルがまるきり正反対ではあるが、パターンとしては類似している。類似するパターンとは
「苦」すなわち、人間の感覚とか感情とか思考を対象として、
「集」すなわち、それらすべてを綿密に分析すると、
「滅」すなわち、究極的に次元の異なるレベルに跳躍する。
「道」すなわち、集中豪雨的な内面の分析というこのプロセスが自己実現に不可
欠な要素である。
「苦」「集」「滅」「道」のうち、「滅」こそが真実をあなたに伝える。「苦」「集」「道」は「滅」に到達するための手立てにすぎない。
そうすると、生命を証する四聖諦と死を証する四聖諦と合計八つの聖諦があるわけだが、この八つのうち、死の「滅」がもっとも大切である。ここにいたるとき、ひとは「空智」に到達でき、自由な自己を実現できる。これこそ、大乗仏教の説く「空」なのだ。
多少でこぼこがあるかもしれないが、『勝鬘経義疏』の骨子は上の通りである。
つまり、『勝鬘経義疏』が説くところは、次の通りである。
1. まず最初に生命の証である生の「滅」に到達せよ、これが「阿羅漢のさとり」である。別名、有余(うよ)解脱。これが獲得できたら、喜んでばかりいないで、
2. 次に直ちに、生の「滅」ではカバーできない残りの意識をすべて分析せよ、すると死の「滅」に到達するから、「生」と「死」の矛盾のあいだで苦しむことになるが、
3. このとき「一所懸命」になれ、命を懸けよ。するとあなたは「空智」に到達する。別名、無余(むよ)解脱。そのときの状態が涅槃であり、心が清らかに静まる状態である。
写真:道常造太子石像
北齊天保四年(西暦553年)
通高52cm
上海博物館
2005 11 21撮影
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の原型ではなかろうか?
なお、価値の転換について、聖徳太子はわざわざ玉虫の厨子を作り、雪山童子(せっせんどうじ)の偈を図示するように指示された。その内容については、筆者の『純粋経験B』(リバーフィールド、1994)の「結語」www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site38/JunsuiB16.htmをご参照願いたい。
さきに引用した長沙景岑禅師の『景徳伝灯録』巻十、「百丈竿頭須進歩 十方世界是全身」も死「滅」の処理方法をうまく説明している。竿頭にまで登りつめて、余地がなくなったとき、最後にひらりと跳躍して、「価値の転換」を体得するのである。
正受老人の言葉も思い起こそう。
「師即ち合掌して曰く、無相自性の戒体、祖庭心授の秘訣を、或いは一大事因縁と名づけ、又は正方眼蔵と謂ふ。祖祖相承し、今に到って断絶せること無し。ただ当人の純工功積り、実参力尽き、最後放身捨命の一刹那に在るのみ。迷へば則ち円頓無作純真の戒体を全うしながら、五濁充満雑業の穢土(ゑど)を為し、会(ゑ) すれば則ち五濁充満雑業の穢土を全うしながら、円頓無作純真の戒体と為(な)り、一切処に純工間欠無きを、之を名づけて真正持戒の仏子と為す。毫釐(がうり)も繋念せば、之を名づけて波羅夷(はらい)と為す。只険崖に手を撒し、絶後に再び蘇らんことを要す。」
正受恵端の『垂語』、市原豊太、日本の禅語録十五『無難・正受』講談社)
聖徳太子が日本の歴史上はじめて説教された(死の「滅」)という哲学上の結節点は、その後の日本において脈々と受け継がれてきた。そう考えてまず間違いはなさそうだ。
蛇足になろうが、前述の『中論』三枝メモ (4)で述べられている「世俗諦」は、生の「滅」、「勝義諦」は死の「滅」と解釈して、それぞれに量子力学モデルを適用すればよい。「滅」とは、量子力学モデルの(3)であると理解すればよい。
また、玉城康四郎によって引用された『自説教』の三つの偈のうち、初夜(しょや)の偈は生の「滅」、中夜(ちゅうや)の偈は死の「滅」と解釈し、後夜(ごや)の偈を「価値の転換」の体得である、と理解すればよい。竜樹の主張するニルヴァーナ(涅槃)も、後夜の偈の別表現である。
このような解釈の糸口を開いてくれるのは、ひとえに聖徳太子の『勝鬘経義疏』があるからだ。『般若心経』を読んでみても、『中論』でも謎の解けなかった「空」の概念を『勝鬘経義疏』は見事に解いてみせるのである。聖徳太子という皇太子の偉大さについて、改めて感嘆の念を禁じえない。
写真:
救世観音像(観音菩薩立像)
国宝
7世紀
木造彩色
像高179.9cm
奈良県 法隆寺蔵
人間の美術3『仏教の幻惑』
上原和(株)学習研究社 2003
聖徳太子のお姿を写し取ったものとされる。