2022/02/26
末広神社
この掲示板がいろいろの情報を私たちに伝えてくれる。
久留島康親が藩主になった経緯については:水軍で有名な来島村上氏が治めた豊後森藩の名残、旧久留島氏庭園を歩く【大分の旅】 (jp-travelogue.com)を読め。
村上水軍史考/村谷正隆/西日本新聞社 P35を参照せよ。
2. 第八代久留島通嘉久留島通嘉 - Wikipedia(1798-1846)が神殿、拝殿、境内を現在ある姿に整備した。
画像:御神殿。奥に見えるのが拝殿。
ここでなぜ、石高1万4千石の弱小藩主がこのような立派な神社を建てられたかという説明をしておかなければなりません。
森藩久留島は外様大名ですから年に一度の参勤交代をしなければなりません。そのために、別府北方の豊岡港(江戸時代の名称は“頭成港(かしらなりこう)”)を飛び地としていたのです。この近くの明礬地区は18世紀中ごろから明礬が製造されるようになっていました。(明礬製造の歴史 | 日本薬事法務学会 (japal.org)を読むこと。)
天保の改革が(1841年 - 1843年)ですから、この前後の時期に森藩は明礬の販売権を入手して巨大な利益を得たもののようのです。
別府という土地は幕府の直轄領でしたから、たまたま別府の明礬が森藩の飛び地に近かったことを利用して、(多分多額の賄賂を使って)、久留島氏は明礬製造の一手権を手に入れたものと想定されます。また、同時に幕府と結託して価格の安い唐明礬の輸入禁止令を発布し、こうした複合的な手段を駆使して、巨額の利益を得たのでしょう。
19世紀の明礬地区における明礬製造販売についての歴史的考証はまだなされていません。でも常識的に考えて、それ以外に巨額の金儲けの手段は見つかりません。森藩における少額の年貢の積み重ねではこういう立派な神社は建ちません。
画像:明礬製造小屋 明礬湯の里~岡本屋売店~SHABBY CHIC
たかが1万4千石の小藩とはいえ、久留島通嘉という人はとても“抜け目のない”商売人だったようです。ここが金の出どころなのです。
余談ですが、こういうことで、久留島通嘉が別荘を建てて住んだ別府市明礬地区には、彼が愛して開発した「照湯」という温泉が再興され、そこに通じる閻魔坂がいまでも残っています。(注:照湯1 - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com))
画像:GoogleMap,2022
さて本題に戻って、次は
御神殿
御神殿は総檜造のもので精巧かつ優美であるが、鞘堂がその上を被っている。鞘堂は規模が大きく建坪が36坪ある。
画面:中央が御神殿を被う鞘堂。実物は美術的に非常に優れている。威容が凄まじい。右が拝殿。
誰がこのド田舎にこんな立派な建造物があると想像するでしょうか。私はすくなくとも吃驚して、腰をぬかしました。
拝殿正面下段の二階建ての建物は栖鳳楼と呼ばれ、階下は茶室となっており、ここから眺めるとはるか九重連山の遠景を取り入れた庭となっている。
内部に入ることもできず、この写真を撮ったのみで退散し、この下にある旧久留島邸庭園を拝観することにした。
南側斜面下の児童公園に接する部分に蓬莱式池泉庭園がある。雄大豪華な手法で石組みがなされている。
ここに久留島家の陣屋が建っていて、そのためのお庭なのですが、石組が圧倒的に美しい。お勧めする。
これで本日の観光は終了です。約1時間で終了しましたので、タクシーで駅前に戻ります。
帰りの列車は12:07発の湯布院の森号なので、時間が余ることから、今朝タクシーを頼んだフレンチ・レストランに時間外の昼食をお願いし、昼食定食を作っていただきました。
名前はわすれましたが、クリームスープ。とても美味。焼きたてのパンも美味。
メインはイカ墨スパゲッティ。これも美味。大当たりでした。
店の名前はEST。シェフは甲斐大史(ひろふみ)さん。近くの宝八幡神社の神主を兼ねておられる神主シェフさん。http://brasserie-est.com
美味しいご飯もいただけたので、意気揚々として湯布院の森号に乗りました。
これも豪華列車で、美人のホステスがおられ、写真を撮ってくださいました。