2022/03/13
プリンター・エプソンが壊れてしまって、スキャンもできないし、往生しているのですが、間に合わせの画像を使って、簡単に報告しておきましょう。
豊後森について、なにかいい本がないか探していたら、西日本新聞社が2005年に発行した
という本が見つかった。
探したら別府市図書館に「貸出禁止」のラベルが張られて書棚にならんでいた。
この本が事細かに森藩についての情報を私たちに与えてくれる。
どうやら第八代の藩主久留島通嘉 - Wikipediaが偉かったようだ。幕末にかけての森藩主です。上の写真は三島公園に鎮座ましましている久留島通嘉の石像です。森藩の石高は僅かに1万4千石ですから、2万石以下の藩主は城を作れなかった(説明超入門!お城セミナー 第54回【歴史】:大名なのに城が持てない!? 「石高」とお城の意外な関係とは (shirobito.jp))ので、代わりに昔の城跡角牟礼城跡 (kusumachi.jp)に三島社(現在の末広神社)を作ったのですね。(注:城無し大名の本拠地「陣屋」の意味するものとは?|城|趣味時間 (hobbytimes.jp))
上の写真で石像の座っている場所が、藩主久留島通嘉の住んでいた陣屋跡です。
下の画像は「時空を超えて」の巻末につけられていた森藩の版図(P277)です。御覧のように幕末に造られた地図ですので、久留島通嘉の繁栄後の地図です。ですから現在の日田町の半分以上が森藩に入っていますし、鶴見地区では明礬が森藩に組み込まれています。
『時空を超えて』はとても丁寧に調査されている本ですが、第八代目の久留島通嘉がなぜ一躍金持ちになったのか、理由がまったく書いてありません。つまり読者がもっと読みたいことが欠けているのです。
銭儲けの方法がすっぽり抜けているのです。
同じことは大分合同新聞社刊『豊後大友物語』で解説されている大友宗麟についてもいえます。(注:参考臼杵を観光する(5) - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com))なぜ、どのようにして大友宗麟が金を稼いだかの記述が抜けている。多分ポルトガル人航海士を使って、密貿易したのだろうと推測はつくが、資料がないからはっきりわからない。
ポルトガル語を勉強し、ポルトガルへ行って、古文書館から資料を探し出しても、多分無駄な結果に終わるだろう。
私は元商社マンだったから、この類のことについてはプロなのです。私は分かっています。商売人は金のことについてはすぐピンとくるのです。
画像:大友宗麟 大友宗麟公像 (9tabi.net)
画像:豊臣秀吉 豊臣秀吉 - Wikipedia
大友宗麟といい、大友宗麟の真似をしてより大きく金を稼いだ豊臣秀吉といい、今回の久留島通嘉といい、彼らは大きく金を儲け、その偉業を誇りますが、どこでどうしてという方法論になると、貝のごとくに口を噤むのです。
これは彼らの個人的な性格によるものではありません。商売人としての性癖なのです。商売人というのは金の作り方に関しては、ひとり自分の胸のなかに納めるのです。決して他人には話しません。書面に残すこともしません。彼らは金の儲け方の秘密を墓場の中にまで持ち込むのです。
私は商社マンでしたから、まったく同じです。商社という枠の中でも決して口を開きません。
透明人間 :: kohnoshg (webnode.jp)を読んでください。
私は鉄のカーテンで遮られた壁の向こうから恒常的にアセトンという化学品を買い付け、それを鉄カーテンの向こう側にある国ハンガリーに売りつけ、汎用化学品を餌にして10%もの普通なら考えられない高額の口銭を毟り取ったのです。お蔭様で私の部門は当時のデュッセルドルフ支店のなかで最高の稼ぎ頭になり、栄光の衣を着て暮らしたのです。誰もその謎を解いた人はいませんでした。
私は鉄のカーテンの向こうで、ルーブル圏内におけるルーブル決済の制約上、西欧の化粧品を買うことができなかったルーマニアの大統領夫人エレナ・チャウシェスク - Wikipediaの足元を見て、ルーマニアの化学品アセトンをUS$で叩き買いして、ボロ儲けしたのです。彼女にとってドルさえあれば、シャネルの口紅が買えたのですから、あちらのほうが商い継続に必死になったのです。中間の商社の口銭の額なぞ問題じゃなかったのです。
こういう風に、商売を突き詰めると、抜き差しならぬ関係が生じ、実行者には多額の利益が生み出され、しかも関係者は全員これを秘密にするのです。
私がこの秘密を公開した理由は、1990年鉄のカーテンが消滅し、ルーブル決済制約がもはやなくなり、エレナも1989年銃殺されて墓のなかに入ってしまったから、もう誰もこの商売の秘密を真似することができなくなったからです。
久留島通嘉に関しても、そういうわけで、金の作り方の秘密を記載する古文書はまず出てきません。
我々にできることは金の作り方に関する推測だけです。
森藩の彼にとって上納年貢以外に小細工を弄せる品目は、日田の楮(こうぞ)か鶴見の明礬(みょうばん)だけです。
楮は高知県、茨木県など産地はいろいろあります。多すぎて、カルテルが組めません。
明礬は違います。
久留島通嘉の時代にはどうやら鶴見で生産される明礬は森藩が販売し、現在の明礬地区で生産される明礬は脇屋儀助(よしすけ)が販売していたのでしょうが、天保の改革前後からこれも森藩が製造販売するようになって、森藩が独占権を持つようになったようです。上に引用した地図でみられるように、明礬地区は明治初年には森藩の支配下にあります。
本件については、誰も書類を残さなかったので、証明はできないが、久留島通嘉は随分いい思いをし、直轄領の役人も羽振りのいい分け前に与ったようです。のちに久留島が子爵になったのも、直轄領の役人にばらまかれた賄賂が功を奏したのでしょう。
まあ、こういうことは全て「下衆(ゲス)の勘ぐり」としておいたほうがよさそうです。
では、皆さま、御機嫌よう。
PS
本論とはまったく関係のないことだが、
高橋洋一
第27回 年金は破綻するのか?実は単純な年金の仕組み - YouTube
という論説がおもしろい。筋が通っている。