2024_04_02 吉野山2

2024/04/02

 なにを隠そう、吉野山の桜見物1 で述べましたように、私は一昨年の47日にここを訪ねていたのです。やはり、御開帳の日を狙ったのです。

 

 それまで、私は、役行者(役小角 - Wikipedia)と西行(西行 - Wikipedia)の二人の史実をまったく知らず、このときはじめて二人の存在の偉大さを知ることができました。今年も御開帳があるらしいと知って、再び吉野を訪ねることとしたのです。

 

 もちろん山の上の西行庵には登れませんが、金峯山寺の御本尊には是非お会いしたいと強く感じていましたので、今回三度目の金峯山寺詣でとなったわけです。

 

 

 どこが私の興味をそそるのかって?

 

 

 この二人が揃いもそろって弱冠20歳の頃に片や役行者は金剛蔵王大権現を感得し、片や西行は自らが出家せざるをえないほどの精神的刮目にいたったことが明瞭に感じ取られるからです。

 

画像:役行者像 室町時代 14世紀 役行者像

|奈良国立博物館 (narahaku.go.jp) 

 

   役行者を守るのはなんと赤鬼です。役行者は地獄の底に在住しているのです。役行者の前に坐るのはきっと西行でしょう。

 

 

 では、役行者とはどういう人か?

 

白雉元年(650年)、16歳の時に山背国(後の山城国)に志明院を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く[ 3]

(出典:Wikipedia 役小角)

 

 凄い人ですね。聖徳太子 - Wikipediaがお生まれになったのは、敏達天皇3年(574年)ですから、聖徳太子の生後61年目に役行者はお生まれになったのです。別の数え方をすると、聖徳太子がお亡くなりになられて(622)から僅か13年目で役行者がお生まれになられたのです。この二人の間に現代に名を遺す偉人は藤原鎌足 - Wikipediaを除けば、一人だっていません。60417条の憲法、607-小野妹子遣隋使、法隆寺、654-大火の改新)

 

 そして私の見るところ、その当時の仏教界の隆盛に負けることなく、日本宗教界に独自の視点で、仏教とは異なる宗教観を樹立したのは、役行者ただひとりです。

 

 

 西欧の歴史からすれば、カトリックの1500年の時間のあとでルターが出現したのとまったく同じです。しかし、ルターの場合は1505年もかかりました、役行者の場合は聖徳太子がお生まれになってから僅か81年です。役行者の精神革命の先進性はキリスト新教にくらべ圧倒的な速さです。

 

 役行者の体験は、私の主張する純粋経験B (lcv.ne.jp)です。昭和352月の私自身の経験です。坐禅4 - dousan-kawahara ページ!

 

 さらに、ルター(マルティン・ルター - Wikipedia)の稲妻経験による22歳の感得ともぴったり一致します。

 

 B経験とは、凄まじい怖さなのです。私たちを圧倒して死へと導く怖さです。

 

 

 役行者、西行、私、マルチン・ルターの四人がそろいもそろって20歳の頃、否定できないB経験と面会させられたのです。

 

動画https://youtu.be/VinArxCJDjo 吉野の桜

 
   

 その怖さを役行者は次のように描き出しました。

 

 

 

 左手の二本の指の示すところを世間の人は刀印(とういん)だというが、見て御覧なさい。人差し指と中指の二本が同じ長さであるはずはない。これは刀印ではなくて、地獄印(地獄の印)なのだ、と私にははっきりと読めるのです。

 

 

 役行者は20歳の頃、自分の精神生活のなかで、この地獄相に遭遇し、これをただ一つの存在であると確信し、時間を措かずに桜の木でこの地獄像を造り上げました。戦乱や失火でこの像は消失したことがありましたが、その度にこの地獄像(金剛蔵王大権現)は役行者の造ったのと寸分たがわぬ迫力で造り直されたのです。

 

 日本全国広しといえども、金峯山寺を除いてB経験を追体験させてくれる場所は他に在りません。だから私はここに来たのです。

 

 

 これで私の胸の内は晴れました。スカッとしました。

 

 

 蔵王堂の前に立つ私です。