『梁塵秘抄』収録の熊野関連の歌
遊びをせんとや生(う)まれけむ
戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
(359)
大意:
遊ぶために生まれて来たのだろうか
戯れるために生まれて来たのだろうか
遊んでいる子供の声を聴いていると、
感動のために私の身体さえも動いてしまう♪
この歌で知られる『梁塵秘抄』。
『梁塵秘抄』は、後白河上皇(1127~1192)の撰による歌謡集。平安末期の遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌(「今様」と呼ばれた)の集大成です(1169年ころ成立)。後白河上皇は、少年時代から今様(いまよう)に夢中になり、女芸人に弟子入り、今様を伝授され、ついには自らが今様の第一人者になってしまいます。
画像:【PR版】RyojinHisho2022〜梁塵秘抄の世界〜 - YouTube 今様をフラメンコにて表現する奇抜な発想。
平安時代の今様とはこういうインパクトだったのかもしれない。
それにしても、後白河上皇の生涯はすさまじい。
後白河上皇は鳥羽上皇の第四皇子として生まれます。普通なら、第四皇子には皇位継承の可能性はほとんどないのですが、鳥羽上皇とその長男・崇徳上皇の不和から1155年、四男の後白河が当時29歳で即位。翌1156年には保元の乱。1158年、32歳で譲位。翌1159年には平治の乱。1167年には平清盛が太政大臣になり、1185年には平家滅亡。1192年3月、没。同年7月には源頼朝が征夷大将軍になるという…。
譲位後、没年まで、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、武家勢力に対抗しつづけたしたたかな政治家。頼朝が「日本国第一の大天狗」と評した怪物。
後白河上皇はその権謀術策により、平家を滅ぼし、木曽義仲を滅ぼし、義経を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼしました。頼朝が滅ぼされなかったのは、鎌倉という京から遠く離れた場所にいたためでしょう。平安から鎌倉時代に移行する激動の時代を後白河上皇はみごとなまでに乗り切ったのです。
この後白河上皇、じつは大の熊野信者だったのです。歴代の上皇のなかで最も多い34回の熊野詣をしています。1158~92年の35年間に34回。ほぼ1年に1回の驚異的なペースです(熊野詣の様子は『梁塵秘抄』の口伝集で)。
そんなわけで『梁塵秘抄』には熊野の歌や「熊野」の語を含む歌もいくつか採られていますので、それを紹介します。
引用:梁塵秘抄、熊野を歌う今様:熊野の歌 (mikumano.net)
後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹 - Wikipedia思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。
口伝集には、1度目と2度目、そして12度目の熊野詣のことが記されていますので、それを紹介します。
引用:後白河上皇『梁塵秘抄口伝集』:熊野参詣記 (mikumano.net)
初音ミクと梁塵秘抄「遊びせんとや生まれけむ」 | りかぴ@ほのぼの研究所 (ameblo.jp)