紀伊半島沿岸 熊野速玉大社

2022/07/05

 実際の訪問日は2006/04/06です。

 

 朝8:45に国民健康保険センター「くまのじ」を出発、新宮までもどり、熊野速玉大社に詣でた。

 

画像:GoogleMap,2022

 

 新宮市観光協会のホームページには次のように書いてあります。

 

 

日本書紀にすでに「熊野神邑」という地名で登場していた新宮市。神武天皇の東征とほぼ同じころ、今から約2200年前には秦王朝の始皇帝の命により、不老不死の霊薬を求めて徐福が新宮に渡来した伝承もあります。中世のころには熊野三山の社務を統括する熊野別当がこの地に居所を構え、また平安時代から鎌倉時代にかけては上皇や貴族の間で熊野詣が盛んに行われこともあり、新宮は熊野速玉大社の門前町として大いに栄えました。

 

 

 熊野速玉大社の神門を通り抜けると、

 

 

 朱色の神殿がうっそうとした緑の森に囲まれて、まるで別世界。

 

 

 拝殿(ひとつ上の写真の中央)が現れる。熊野速玉大社 - Wikipediaによれば、「熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ」ているそうだ。現代語でイザナギの命。イザナギの命に関する怖いお話はイザナギ - Wikipediaを読んでください。

 

 

 左に授与所、正面に参集殿、右に拝殿。

 

 

 熊野御幸の説明だが、要すれば、平安時代初期から鎌倉時代初期に至るまで歴代の天皇による熊野御幸が続いた。

 

 

 この説明版で説明されている熊野御幸のルートを地図上でプロットすると、次のようになる。

 

画像:GoogleMap,2022一部改変。

 

 藤原定家が、東京の三井記念美術館に、後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した『熊野御幸記』(国宝)を残している。18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(国宝)のなかの一部分で、これは建仁元年(1201年)に記されたものだ。参考:藤原定家 - Wikipedia。 『熊野御幸記』の内容については御幸記7 (ojiri.jp)を読め。

 

 極楽浄土を目指す旅は艱難辛苦に満ちた旅だったようだ。

 

 

 現代語訳の新宮の箇所は

 

十八日 天気晴れ

 

(乗船の間の事)

 

明け方に宝前を拝む。川原に出て船に乗る。

 

〔宛てがいくださった船が1艘、予が個人的に雇った船が3艘、併せて4艘。供の下人らを多くとどめた。略定、侍3人、力者法師2人、舎人1人、雑人らである〕。

 

覚了房(阿闍梨)は老いに屈したと言っていまだ参らない。円勝房はともにしたがって行く〔精進屋よりともに来た先達である〕。

 

 

川の途中に種々の石などがある〔あるものは権現の御雑物と称する〕。

 

未の一点ころに新宮に着き奉拝。

 

(新宮に出御の事)

 

しばらくしていつもの通り御幸。前行して先ず宝前にお参りになる。

 

次に御所に入御。次いで立烏帽子。帰参してだいぶ経ってから出御(御奉幣の事)。御奉幣は本宮のよう。

 

予は前のように祝師(※神職)の禄を取る。事が終わって御経供養所に入御する間、私的に奉幣する。

 

人が多いことは例の如し。

 

帰参して、御経供養の布施を取る。

 

次に例の如く乱舞、次に相撲があり、この間に宿所に退き下がる。

 

夜に入って加持のため宝前に参る。僧らが散らばっていて、会に来ない。よって事情を問う。

 

先達に示して御所に参る。例の和歌が終わり退き下がる。また序がある。

 

 

 

 

 

非常に長い旅路だったようだ。天皇方は馬を使って陸路を取られたのだが、平の清盛はどうやら海路を使ったようだ。(船に飛びこむ吉兆のスズキ)(青岸渡寺と清盛 - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com)を参照せよ)。なお清盛の父親の棟梁忠盛は後期保延3年(1137年)熊野本宮を造営したことで、清盛は肥後守に任じられる。引用:平清盛 - Wikipedia

 

 

 

いずれにしても、平安時代から天皇や有力政治家たちが熊野詣をしていたことがよくわかります。

 

 

 武蔵坊弁慶の出生もここだという説もあるようで、

 

 

 ご神木「梛(なぎ)の大樹」は神宝館の正面にあります。

 

 

 なぎの老樹の真向かいに位置するのが、熊野神宝館です。素晴らしい宝物館です。国宝で埋め尽くされているような。

 

画像:熊野神宝館

 

 

 入り口階段のところに弁慶像もあります。

 

 

熊野神宝館は、室町時代に足利義満公が奉納したと伝えられる調度品を中心に、約千二百点にのぼる古神宝類を所蔵しており、いずれも国宝に指定されています。

 

 

この彩絵檜扇は緑の松、朱赤の楓を画き、金銀箔をちらし、下方にはススキを配している。

 

檜扇とは檜の薄皮をつヾって作った扇で、主として宮中においての儀式に際し、公家の男女が正装して所持したもの。位によって枚数がことなる。熱田神宮に一握、厳島神社に五握、当大社のもと摂社阿須賀神社に一握(現在は国有)を存するのみで、これは長さ一尺三寸二分、巾上一寸二分、本九分の檜板二十七枚を萌黄紅糸で綴合せ、紙ヨリを石畳結びとして蟹目にとおした親王用品である。世に熊野檜扇として有名な十握の中の一つである。

 

引用:宝物|熊野速玉大社|熊野三山協議会 (kumano-sanzan.jp)

 

 

 上記のほか、

桐唐草蒔絵手箱

金銀装鳥頸太刀

金銅装錦包掛守

玉佩

挿頭華

組紐

錦包挿鞋

木笏・梛蒔絵笏箱

 

 熊野御幸にかんするもう少し詳しい説明は次主な作品の紹介 (wakayama-c.ed.jp)を参照乞う。

 

 

 では皆さま、御機嫌よう。