2022/07/08
青岸渡寺と清盛の関係を調べておきましょう。平清盛 - Wikipedia
『平家物語』にまず最初に熊野が登場するのは、巻一の「鱸(すずき)の事」。
そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。
清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国安濃の津(伊勢平氏の本拠地)から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。
先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」と申したので、清盛は十戒を守って精進潔斎の熊野参詣の道中であるけれど、自ら調理して、身を食べ、家子(いえのこ。一門の庶流で本家の家来になっている人々)、侍(血縁関係のない家来)たちにも食べさせた。
そのためか、以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。九代の前例を越えたのは見事である。
(現代語訳終了)(引用:平家物語1 平清盛の熊野詣:熊野の説話 (mikumano.net))
注1:清盛が安岐守であった時代は彼が29歳から39歳までの時期であったようだ。
注2:津城址とは 安濃津 - Wikipedia。清盛が何歳のときのことか分からないが、かれは現在の三重県津市のあたりにあった伊勢国安濃の津から海路で熊野詣でを行った、と理解される。
画像:GoogleMap,2022
さらにまた、現地での説明版から。
写真:2006/04/06撮影 青岸渡寺の説明板
注:1163年 清盛46歳
世界遺産「那智原始林」には那智大滝を含め、「那智四十八滝」と呼ばれる修験道の行場となったたくさんの滝があります。「一の滝」でもある「那智大滝」に続くのが「二の滝」。「木葉返しの滝」「 如意輪の滝」と形容される優美な姿をしています。普段は立ち入りが禁止されているので、ガイドの案内が必須です。(引用:同上)
平の清盛は熊野詣で望外の幸運を手にしていたのですね。天皇家の熊野御幸といい、平清盛の参詣といい、平安時代における熊野の霊力には驚かされます。
ところで、1177年(清盛60歳)、平氏打倒の陰謀(鹿ケ谷の陰謀)によって喜界が島へ流刑にされた俊寛、丹波少将成経、康賴入道のうち、成経、康賴の二人は熊野信心のお蔭で流刑を免れたが、清盛は不信心の俊寛を許さず、俊寛はひとり喜界が島に残され、傷心のまま、同島で客死した(1179年)。
熊野の魔力は凄い。
撮影:両画像共に2008/01/22 硫黄島にて
私は日本の文学・歴史についてまったく不案内であったから、この項では
平家物語(原文・現代語訳) - 学ぶ・教える.COM (manabu-oshieru.com)
をじっくり読ませていただきました。ネット社会では、無料で必要な知識が得られるのですね。感心します。
ちなみに俊寛が一人喜界が島に取り残される箇所は次の通りです。
清盛は俊寛の熊野不信心を許さなかったのですね。こうなるともう狂信です。後日俊寛の召使である有王が鬼界が島に訪ねたときの俊寛の様子は、
俊寛は、絶望のあまり、絶食して死亡したのだが、
すると、俊寛の怨念が京に届いたのか、京都は暴風に襲われた。