2020/05/05
今日は朝から晴れであることが確実だったので、涼しいうちに散歩しておこうと考えて、6時45分に家を出て、まず朝見神社の方角へ、つまり南向きに歩き始め、コスモスの前を通り、朝見川を渡り、朝見神社には入らずに真っすぐ坂道を上り、水道局の施設でラクテンチから降りてくる道に入り、浜脇に向かって歩きだした。
はじめに出くわしたのが、この写真に見る宝籠山(ほうろうざん)宝満寺である。小さいながらしっとりとして落ち着いたお寺だった。台宗というのだから、天台宗で、鑑真和尚が持ちこんだ宗教だから、歴史は古いに決まっている。西暦718年に堂宇が建てられたというから、奈良時代の初め、行基が活躍していた頃の話です。
山の上のお堂の裏にミニ仏像の彫刻が彫られてあった。
簡略化されているが、中央の本尊は千手観音であろう。
寺の前の小さい空き地から見る別府の街はアングルが異なっていて、見慣れた光景ではなく、興味深かった。
ここを過ぎて深い渓谷をなす河内川にかかる橋から下を覗き込み、
深い谷。右側の建物の前に仏像かなにかありますね。
これを通りすぎて、バイパス道路にでる。このバイパス道路はかいがけ温泉を終着とする亀の井バス路線なのだが、内成(うちなり)棚田を越えて行くらしい。内成棚田は日本の棚田100選に数えられる棚田だが、亀の井バスは日に二本しかない。一度行ってみたいが、車がないと難しい、みたいだね。
画像:大分県
なので、内成棚田には向かわずに、浜脇温泉の方に向かって、巨大なトンネルのなかを通る。歩道だけでも幅は5mほどもある。いざというときのための戦略的重要性を考えたものだろうか。
このトンネルを抜けると、浜脇温泉である。
江戸時代の古戦場図『豊後國速見郡石垣原図』には
海中出湯所々ニアリ 潮干ニハ人湯浴ス
と書かれている。海中温泉があった、ということであろう。
画像:南立石公園内の掲示板から。
実に江戸時代から明治時代にかけては、別府の温泉といえば、浜脇温泉が代表格であったらしい。
画像:豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図
説明: 豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図は、当時の浜脇温泉の繁盛ぶりが良くわかる図。現在、別
府市美術館で所蔵。(1枚・41cm×62cm)。
1881(明治14)年に発行。
大勢の入浴客や来街者、人力車などが描かれている。
温泉は、東湯と西湯があって、前者は弦月泉、後者は清華泉となる。
明治14年に描かれたこの画像からすると、当時の浜脇温泉は、実に堂々たる温泉場であったようですね。
現在の浜脇温泉の掲示板から説明文を拝借すると、
弦月泉が浜脇温泉となり、清華泉が浜脇高等温泉となった。(昭和3年)
昔、ここに在った浜脇高等温泉と浜脇温泉の堂々とした建物は取り壊されて、今は巨大なマンションビルとなり、その一角に浜脇温泉が再生されている。
現在の浜脇温泉の大衆浴場は、どうやら観海寺あたりの湯を引いているものらしい。湯は透
明で、無臭で、温泉らしくないが、皆さん楽しそうに浴びておられる。
東別府駅 JR九州-日豊本線 1911年(明治44年)11月1日開業
解説:駅舎は木造平屋建、寄棟屋根の両側に庇を配したオーソドックスなものです。
開業以来改築の記録がなく、客観的史料に乏しいものの、1911年11月開通時のものが
そのまま使われている可能性があります。
この駅舎の開業当時の名称は、浜脇停車場だったのですね。ちなみに明治44年という年は、日露戦争が終わって(明治38年)から6年目です。
日露戦争は、その講和条約締結時に(飫肥出身の)外相小村壽太郎が大活躍しました。改めてハーバード大学出身の小村壽太郎という人物の偉大さを感じさせてくれます。
しかし、この鉄道開通は今現在その実情を我々が目にするように、浜脇の街を綺麗に分断し、臨済宗の崇福寺と浄土真宗大谷派長覚寺を浜脇の街から切り離してしまいました。この浜脇停車場の設置によって、門前町としての浜脇は滅ぼされたようなものであります。
画像:GoogleMap, 2020
画像:GoogleMap,2020。堤防の右側が朝見川、左側が浜脇港。