2021/05/15
「別府史談」はとても興味深い書物で、県外の人間が別府のことを知るためには格好の参考書である。ただし、著作権があるから私たちが、この本を引用あるいは複製することについては問題が生じる。だから、先に別府史談会にこの本のデジタル化、つまり無料公開を提案したのだが、いますぐに、この書物の内容をご紹介するには、著作権の切れた文章を対象とせねばならぬ。だから「別府史談」のなかでも「別府繁盛記」を選んだ。
原文は「別府史談」第四号 (別府史談会 1990 発行)以降所載の記事である。顛末は同書編集後記に書かれているとおりですが、引用しておきますと、
「別府繁盛記」は、明治四十一年六月に大阪毎日新聞が連載したもので、先日古書即売会で偶然入手しました。三面先生とは、当時同新聞社の記者であった菊池幽芳です。八十余年以前の別府の有様がよく分かります。次回は共同温泉・砂湯温泉についての記事を紹介する予定です。
文面から察せられる通り、著作権は切れているので、ここに転載させていただくことにします。ついでに「別府史談」第五号の同名記事(二)も添付しておきます。
参考のために、明治年間の別府温泉の絵画、絵葉書、写真などをところどころに配置しておきました。
画像:別府八湯の歴史(豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図)(2015年07月29日) :
豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図
豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図は、当時の浜脇温泉の繁盛ぶりが良くわかる図。現在、
別府市美術館で所蔵。(1枚・41cm×62cm)。
1881(明治14)年に発行。
大勢の入浴客や来街者、人力車などが描かれている。
温泉は、東湯と西湯があって、前者は弦月泉、後者は清華泉となる。
別府繁盛記 日本一の温泉地(抄)
別府繁盛記(二) 日本一の温泉地(抄)
画像:別府市中心部の温泉(明治期)|小野弘|note 不老泉 明治35年に建てられた3階建てで、当時としては最大規模の豪壮な建築物。3階からの眺望も売り物だった。
画像:楠温泉 別府市中心部の温泉(明治期)|小野弘|note
別府繁盛記(三)以降は省略。
別府繁盛記(五)日本一の蒸湯bs00812.pdf (beppu-u.ac.jp)
別府繁盛記(六)別府温泉繁盛記結論(上)(下)bs00913.pdf (beppu-u.ac.jp)
以上の報告書が立証するところは明白であるように思われる。
1. 菊池幽芳が大阪毎日新聞に「別府繁盛記」を発表した明治41年よりおそらく20年以上前にはすでに、別府温泉の爆発的な拡大が生じていた。
2. その有様は次の浮世絵-浜湧温泉場賑之圖-に活写されている。
3. この浮世絵は油屋熊八が温泉業界に入った明治44年よりはるか前に描かれたものであることは、交通手段が人力車であって、自動車ではなかったことからも明白である。
4. つまりその、後世の評論家が指摘するような定説、「別府温泉の繁栄は油屋熊八がもたらした起爆力によるもの」ではなかった。油屋熊八がいてもいなくても、浜脇と別府には民衆が押し寄せた。
5. それが何であったかをずばり小説家菊池幽芳が解説している。彼は当時の別府で最高のランクの宿屋日名子に宿泊し、宿の番頭に案内されて別府と浜脇の温泉街を見てまわった。
6. 彼は言う。気違いじみた混雑と暗黒のなかで作り出される原始的狂騒状態-人間の動物本能のみが作り出す解き放たれた陶酔状態-これこそが原動力なのだ、と。
7. そうなると、浮世絵の後方に描かれた崇福寺(臨済宗)と長覚寺(浄土真宗)が提示する宗教的陶酔となんら変わるところがないではないか。
解きにくい主題ではあるが、まあ、こういうところではないでしょうか。
注:
正確を期するための注記なのですが、
八岩まどかが『温泉と日本人』青弓社 1993のなかで指摘するのは、P162
別府町長 田名子太郎 1907年(明治40年)
大阪毎日新聞社の記者を招き、「別府繁盛記」という37回の連載記事
温泉と日本人 増補版 - 八岩まどか - Google ブックス