2024_05_10 感謝

2024/05/10

 さて、本題に戻ることとしましょう。

 

 

 私に与えられた命題とはなにかと申しますと、一冊の本『正覚のとき 』が難しすぎるから、この本の内容の解説をせよ、ということなのです。

 

 

 『正覚のとき』が難しかろうが、どうであろうが、他人様(ひとさま)の感じ方にはもう関わりたくない。私はもうすでに老齢だ。昔のように機敏に御要望に応じるには齢を取り過ぎている。私はこの本を完成させるために命がけで努力した。史実も論理も完璧を期した。誰にも文句をつけられる筋合いはない。

 

 

 私はこの本が完成しただけで、有難いのである。誰に感謝する? この本を完成させたとき、参考文献のところだけが未完成で残った。この部分は実は私の妻と息子がやってくれたのである。だから、私の妻と息子に感謝したい。彼らがやり残したところが二点あって、だから、私は名古屋の図書館まで出かけてそれを調べた。つまり、この本の完成には私の家族の協力があった。これには大感謝だ。

 

 

 私は私の会社生活のなかにあっても、自分の思う通りに生きた。会社の上司や同僚の世話にならなかった。彼らの意見も聞かなかった、なんとか会社を退社の日まで頑張ることが出来たのは、私は実にこのように自分勝手に振舞ったが、会社の上司と同僚たちのお蔭なのである。だから、この両者に御礼を言いたい。私は彼らの業績になんら資するところがなかった。自分の思うように生きたのである。そのために出世は我慢した。出世のために上司や同僚に配慮することは一切なかった。ご要望に応えることが出来ずに御免なさい、と言って済ませたのである。我儘人生を貫いたのである。にもかかわらず、今、こうして退職後も私は年金を頂いている。有難いことだ。

 

 

 私の娘が結婚して、息子を一人造ってくれた。これも大変に有難いことだ。彼の名前は〇太郎というのだが、〇太郎君の居るお蔭で、私は私の後世に道筋がついた。これはまことにありがたい。

 

 

 娘の夫がまたまことによくできた人で、私の娘と孫にとても良くしてくださる。だから、娘の夫に感謝する。彼がいなかったら、私は安心してあの世に旅立っていけない。私が今日感謝する相手としては、娘の夫の存在が一番だと思う。

 

 

 私は父の五男として生まれた。兄弟姉妹を数えると、実に八人いて、そのうちの七番目なのだ。私はその八人のなかで最後に生き残っているラスト・バッターなのだ。最後に残っていた和佳子という妹も先日旅立って行った。彼らの一人一人には幸福なのもおり、不幸なのもいた。彼らから何かを得て得をしたという気持ちはあまりないのだが、にもかかわらず、彼らが居たという事実が私を和ませてくれる。それを気づいたのは最近になってからだ。だから、この二年ほど私は「感謝の集まり」を実行して彼らの恩に報いようとした。生き残っている人たちに最上無上のお食事を差し上げて、感謝の気持ちを表した。有難いことだ。沢山の人たちのお世話になった。この世を去ってもあの世で私は皆さまに御礼申し上げ続けるだろう。

 

 

 私を最後の日になっても力づけるのは仏教の存在だ。仏陀という人物の存在だ。彼が私の存在の基本になっている。彼の教えが私の思考の基本となっていた。だから、私は私の最後の力を振り絞り、『正覚のとき』を完成させた。これは仏陀という人物にたいする私の報恩の行為だ。この書物により、私の立ち位置は充分に規定されることが確実になった。民主主義という哲学が仏陀の教えと合致することを私は記述した。これで充分だ。ちなみに京都大学では私は留年後の二年生のとき、午後の一般教養の時間に長尾雅人先生の仏教学講義を拝聴した。一字一句、先生の講義をペンで書き留めた。懐かしい。

 

 

 私には為すべきことはもう残ってはいない。先日私は大分県の県南の佐伯市に行った。私は佐伯市の港の海に驚愕した。港は美しかった。塵一つなく、まるで天国のような美しさがあると思った。 佐伯1 - dousan-kawahara ページ!

 

 

 もうこれで思い残すところはない。私は生きた。そして生きた証も残した。これで充分だ。

 

 お釈迦様も私を小突かれることだろう。なにをもたもたしているのだ。そろそろこちらへ来い、と言っておられる気がする。和佳子も死ぬ間際に私に声をかけてくれた。それで私は別府から金沢まで遠路はるばる会いに出かけた。私には死に際の和佳子が、「あなたもそろそろ時期ですよ」と声をかけてくれたという実感がある。

 

 

 だから、そろそろお暇しようと思っている。それにつけても 感謝! 感謝! 皆さまのお世話になった。どうもどうも有難う。