2022/09/20
画像:国内の65歳以上 約3割に 世界で最高水準 今後も上昇 (msn.com)© FNNプライムオンライン
9月19日は、敬老の日。
国内の65歳以上の高齢者人口は過去最多となり、総人口の3割に迫っている。
ここで高齢者という定義は、高齢者 | e-ヘルスネット(厚生労働省) (mhlw.go.jp)によれば、
国連の世界保健機関(WHO)の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としています。
65-74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼びます。
というのですから、今年82歳の私は、「後期高齢者」のカテゴリーになりますね。
総務省のまとめによると、15日時点の高齢者数は推計で、2021年より6万人増えて3,627万人、総人口に占める割合は29.1%と、ともに過去最多となり、世界でも最高水準となっている。
今後もこの割合は上昇を続け、2040年には総人口の3分の1を上回る、35.3%になるとみられている。
一方、65歳以上で職に就いている人は、2021年で909万人と過去最多となり、特に65歳から69歳では初めて5割を超えて、50.3%だった。
(出典:国内の65歳以上 約3割に 世界で最高水準 今後も上昇 (msn.com))
こういう話は、国連の定義によるものだから、我々老人の実感的経験から判断すると、この定義を十歳づつ引き上げたらどうだろう、と思う。国連の定義がアフリカでも日本でも実感的に同一というのはおかしい。アフリカで75歳の老人と日本で75歳の老人とを精神的/体力的に同一視なんてできるわけがない。アフリカでの定年が60歳であったら、日本での定年は10歳加えて、70歳にするのが当然だと思う。私だって、65歳から70歳まで中小企業で働かせてもらった経験がある。給料はとても低かったけれども、働いて楽しかったよ。
酒田市といえば、ボンソワールTV BonSoirTV - YouTubeのアマンディーヌが有名だ。彼女はフランスのブルゴーニュ州ボーヌ(Beaune)の出身だ。
画像:GoogleMap, 2015
アマンディーヌに成り代わって、ボーヌを紹介して見よう。
ボーヌのオスピス(ホスピス, 施療院)- 1443年にブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランが創設したもので、貧しい人たちに無料で医療を施した[1]。入院の条件は、貧者であることただひとつだった。王侯貴族から寄進されたブドウ園とそこから生産されるワインで、費用は埋め合わされていた。この建物は、屋根瓦が、黄色や赤、茶色とカラフルで、しかもブルゴーニュ風の文様を描くようにデザインされていてとても美しい。こうした施療院は、当時、オテル・デュー(神の宿、fr:Hôtel-Dieu)とも呼ばれた。
(出典:ボーヌ - Wikipedia)
私がボーヌを訪ねたのは、2015/05/24で(EastFrance (lcv.ne.jp))、確かにボーヌのオスピスも訪ねたのだけれども、たまたまそのときバスのなかにカメラを忘れたので、写真が一枚も撮れていなかった。
だが、ミシュラン・ガイドには次の説明がある。
翻訳:
**ボーヌ
世界のワインの大産地の一つであるボーヌは、その芸術的遺産によっても有名である。1368年に要塞化されたが、此処はディジョンに移る前にはブルゴーニュ公爵達の住いであった。
丘陵(ラ・コート)
ブドウ畑がボーヌの南北に連なっている。それは名声が示す如く素晴らしい畑だ。ブドウがここに初めて植えられたのはガリア・ローマ時代であった。;ブドウが植えられた地域は修道院の設置による荒廃地と森林地帯の開墾のお蔭で中世の時代に増加した。ブルゴーニュワインの名声は大公宮廷の興隆に伴って15世紀に広がった。次の世紀には大きなブドウ畑が独立企業となった。というのも修道士達は土地保有からあがる利益を極大化しようとして、彼らの土地と管理を抵当に入れ、街の財務関係者の手に譲ったからである。
「コート(丘陵)」はソーヌ河の沖積地の上にあり、ところによっては深い谷による割れ目のある、長く真っ直ぐな急斜面によって形成される。その麓では、土、排水、日当り、微気象の細かい状況に従って壁に囲まれた囲い地で立派なブドウ、最も貴重なブドウが生長する。北にはコート・ド・ニュイ(夜の丘陵)がある。そこは極上のピノ・ノワール種のブドウ(ニュイ、ヴォーヌ、ヴジョー、シャンボル、モレ、ジェヴレ・・・・)から作られた高貴な赤ワインで有名である。南には、コート・ド・ボーヌがある。ここでは同じブドウから他の赤ワイン(ボーヌ、ポマール、ヴォルネ、シャサーヌ=モンラッシェ、サントゥネ、メルキュレ)が作られる。そしてここではシャルドネから最上級の白ワイン(ムルソー、ピュリニー=モンラッシェ・・・・)が作られる。11月の第三日曜日にはホスピスのワインのためのオークションがボーヌで開かれる。
翻訳:
ホスピス:15世紀の慈善財団
1443年、フィリップ善良公(P120)に仕えた宰相ニコラ・ロラン(1377-1461) がボーヌにオテル・デュウ病院を設立した。星の出現で彼の出現ほど流星的華々しさをもっていたものはほとんどない。オータンの慎ましい家族に生まれた彼は、弁護士になり、無畏公ジャンの顧問官となった。1422年、彼は出世してフィリップ善良公により宰相という高い位階に昇進した。彼の主人の信望と利害を巧妙に助長する一方、彼はまた前例のない度合でみずからのために依怙贔屓、出世、権力を取得した。ブルゴーニュを英国との同盟関係から切り離し、1435年のアラス条約でフランスと仲直りさせることに成功したのは彼であった。
彼の野心を進める間、忘れていた良心の呵責についての後悔からか、66歳になった一人の人間の魂を配慮したものか、あるいは、貧窮者の福祉にたいする心からの関心に出発したものか、彼は一軒の無料の病院を設立し、そのために森林、耕地、アロックス=コルトンとムルソーの間のブドーからなる1300ヘクタール(3200エーカー)の地所から挙がる永続的な収入を保証提供した。:現在では58ヘクタール(143エーカー)のブドーが、この尊敬するに足る施設の維持と修復に当てられている。
1457年、ロランは君主の寵愛を失った。;彼は4年後オータンで死んだ。
またこの施設のGrand’Salle(大広間)に飾られているvan der Weidenの絵画は必見の価値がある。
セント・マイケル(最後の審判、折り畳み式祭壇の一部)、ボーヌ
翻訳:
***最後の審判のポリプティーク(折り畳み式祭壇)
ロラン彼自身がこの作品を大ホールの聖壇に飾るべくロヒール・ファン・デル・ウェイデンに依頼した。この画家は助手達の助けを借りて1443年と1451年の間にこの作品を完成した。この決定的な瞬間における感情の表現、そして細部の完成度(巨大な拡大鏡の助けを借りて見聞することができる)からして、これはゴチック絵画のもっとも偉大な作品の一つである。その当時、非難されることなき人生を生きることから期待されるべき結果の口寄せ表現は名人芸であり、安心を与えるものであるに違いなかったであろう。
なお、Nicolas RolinについてはNicolas Rolin - Wikipediaを参照せよ。
残念なことに、現在日本のYouTubeで大評判になっているアマンディーヌは、自分の街のことを詳しく説明していない。
彼女の代表的なYouTubeを次に挙げておこう。私は、小さい体で日本語を自由に操るアマンディーヌが大好きだ。
アマンディーヌと酒田市の関係
【衝撃!】フランス人に『フルーツサンド』は通用するのか!? - YouTube