2017/08/15
画像:2014/11/11 飯山市 正受庵で撮影。
画像:2014/11/11撮影。正受老人については次を参照のこと。
皆それぞれにいわく因縁があるのだろうが、私の場合は次のような具合で坐禅生活がはじまった。
私が12歳(中学1年)の4月、建築会社をやっていた私の伯父、真柄要助が「今日は坐禅に行くからな」と宣言して、要助の息子二人と私の兄二人をふくめて合計6人で坐禅に出かけた。この時代は前の時代の余波として金沢では坐禅が教養の一つとなっていた背景があり、私はこのような伯父の導きを左程おかしいとは思わなかった。
ところが坐禅に出かけた先は禅宗の寺ではなく、金沢市内の一般の家であった。金沢大学教育学部長徳光八郎先生の新築の家であった。
徳光八郎先生の家の座敷には部屋の周辺に座布団が敷かれ、禅坊主がひとり、庭を背景に座っておられた。あとでお聞きしたら相国寺派のお坊さんであった。金沢には相国寺派の禅寺はないので、よそから招かれたのだろう、と考えている。
この禅僧と徳光八郎先生とその奥様と我々六人で坐禅会は始まった。
腰に腰枕を当てがい、半跏を組み、禅僧が線香に火を燈し、約50分ばかり坐禅を組み、終わりに禅僧が警策を持ち、参加者の肩甲骨をたたいて回り、全員で「白隠禅師坐禅和讃」を唱和する。最後にお菓子とお茶が出され、それを戴いて解散するのである。
いままで坐禅をやったことのない者には、足は痛いし、坐禅中の全くの静寂は異様であるし、終わったあとの足のしびれは耐え難いものであるから、突然襲ってきた「苦行」というのがはじめての坐禅の印象であった。
お菓子をたべながら、これから毎月一回この坐禅会を開くから、よかったら坐禅会に参加してください、とのお言葉が徳光八郎先生からあった。
先生の新築のお宅は野町広小路から寺町の方へワン・ブロック上がった寺町5丁目から南へすこし入ったあたりにあって、回りに家は少なく静寂そのものであった。
私はどういうわけかこの坐禅会が気に入って、このときから高校三年の冬にいたるまで6年間、毎月一回この坐禅会に通い続けた。一回も休むことがなかった。私の従兄弟と兄弟は一回で参禅をやめた。だから私は一人で通ったのである。
徳光八郎先生も禅僧も、私にはなにも話してくれなかった。ただひたすら座ることを目標とした坐禅会であった。人によっては、例えば私の伯父のように、(白隠禅師の)「隻手の公案」の意味をとくとくと語る人も居るのではあるが、このような自慢話はこの坐禅会では決して披露されなかった。
私は、ひたすら真剣に座ったので、この六年間の修行で「心を鎮める」とか「心の中に沈む」とか、線香の灯のなかに時間と融合するコツを覚えた。完璧に坐禅をマスターした、と思う。
人は坐禅を心を鎮めるための道具として考え、静かな心を作るために坐禅に通うようであるが、どういうわけか私は第一回目の坐禅会から、坐禅の雰囲気のなかに同化して、いささかの疑いももたない禅人となってしまった。
人はこの坐禅からいかようにして「至高の境地」にいたるかを真剣に考え、相談し合うのが常であるが、わたしの場合は、語り合う人を誰一人持たず、高校三年までひたすら禅に没入した。だから、禅人の姿勢は出来上がっていて、あとは事態が起こるのを静かに待つばかり、の状態になった。
画像:
こういう訓練の結果、私は大部分の禅修行者とはことなり、結果については考えず、なにも考えないまま、結果を待つ姿勢を続けることとなった。求めては来ないのである。ひたすら修行を完成の状態に仕上げると、結果は向こうから来てくれる、のである。
画像:2014/11/11撮影。正受庵にて。
こういうことで、私は基本的に心の奥底の思念にふける人間となった。普通、高校生は放課後はクラブ活動をするものであるが、わたしは運動クラブにはまったく興味がなく、部活とはまったく縁がないへんてこりんな学生となった。だから、いまでもスポーツには縁がない。
PS2
私が徳光三郎先生のところに通っていたのは、昭和27年(1952年)から昭和33年(1958年)まででした。金沢市玄蕃町に住んでいた私は、味噌蔵町停車場から4系統野町行の電車に乗り、野町広小路で2系統寺町行に乗り換え、野町5丁目(大桜)で降車していたのです。懐かしいですねえ。
画像:在りし日の北陸鉄道の乗車券。
写真:いずれも北鉄金沢市内線 (tok2.com)
私と同年代と思われる“はーさん”のまことに貴重なホームページからお借りしました画像です。その当時の金沢市の写真が多数掲載されています。“はーさん”に多謝。(2021/12/26記)