2018/08/15
今日は終戦の日である。同時にお盆である。郷里の金沢ではお盆は7月15日だったが、8月お盆に移りつつある。
先日東京に住んでいる姪が電話をかけてきて、清二叔父さんの誕生日は何時だったか、と尋ねてきた。私は「知らない」と答えた。
姪が手伝いをしている会社に鹿児島県出身の若者がいて、清二(私にとっては兄)の慰霊碑のある鹿児島県の鹿屋の出身だったから、状況を聞いて鹿屋までお参りに行ってきた。そのとき、鹿屋の慰霊碑の管理をしている女性から、清二の誕生日を教えてくれと言われて、それで聞いたのだという。
最近のお寺は過去帳は維持しているようだが、昔のように戸籍係の責任をもっているわけではないから、金沢市の市役所で戸籍係に相談するのが一番だ、と答えた。
画像:2006年12月13日撮影。ミャンマー インレー湖市場
清二兄については私が五歳の時に亡くなったから、正直言って、彼の顔立ちも覚えていない。覚えているのは終戦後しばらくして、政府からの骨壺が送られてきたことと、父がそれを開けて私たちに見せてくれたのだが、それは何も入っていない空っぽの箱だったことくらいだ。
真柄の伯母は「清ちゃんは素晴らしい美男子で、高校ではバスケットボールの選手で女性にとって憧れの的であり、死ぬ前に白い海軍服で金沢に帰ってきたときは、神々しいきりりとした美しさに圧倒された」という。伯母曰く、「どうして死なないかんのや、と聞いたが、これは私の運命なのだと彼は答えた」由。
姪がお参りに行ったのは鹿屋(かのや)であったらしいが、実は彼が飛び立っていったのは、出水であった。清二は終戦の年の3月21日、朝6時25分、出水から特攻隊で飛び立って行ったのだ。本件については父が傷心で、出水に鎮魂の旅に出かけるのが遅れた。終戦後5、6年して出水に行ったらしいが、その旅の様子を私たちに語ってくれることはなかった。
画像:銀河
だから、私たちは父の傷痕の思いを無言で受け入れ、ほじくり返すことをしなかった。清二は父が先立たれた最初の子だったからである。
出水の特攻隊については、阿川 弘之が1958年に「雲の墓標」(新潮文庫 1958/7/22)を書いた。この本を読めば当時の出水の様子が分かる。
どなたが手配されたのか知らないが、最近になって、
「特攻隊遺書シリーズ OO清二海軍中尉 出水 (鹿児島)」
と題する記事が公開され(『魂のさけび』鹿屋航空基地資料館連絡協議会)、私はびっくりした。73年も前のことで、その当時私は幼児だったこともあり、彼の遺書が存在していたことさえも、私は知らなかったからである。