2020/12/15
益軒全集巻之五 P192
黒田家譜巻之六
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へ、士卒までも饗應し、数日留置休息せしめ給ふ。小西、長政に對していひけるは、大明の兵大勢定てやがて攻來るべし、小勢を以此地に待うけ、防ぎ戰ひ給はんよりは、我とおなじく王城に退き給へかしといひければ、長政答ていはく、いまだ敵の旗を見ずして退ん事、武將の本意にあらず。貴殿は先日の合職に辛勞し給ひ、士卒も多く討れ手負も多ければ、早く王城へ歸り、士卒を休息させらるべし。我等においては爰にて江南人と戰ひて、勝負を决(*1)すべしとぞのたまひける。又秀包(*2)にも都へ引退かれ候へと、小西すゝめけれども、是も長政と同意にて、其まゝ牛峯(うぽん)に在城せらる。小西は王城へ引退きける。小河傳右衛門も、長政より龍泉を引収べしと下知せられければ、長政の家臣栗山四郎右衛門が守り居たる江陰(かはん)といふ所まで引來る。長政江陰を心元なく思ひたまひ、かねて宗徒の兵共を指遣(*3)さる。此時敵江陰の寨(*4)を侵さんとて、大勢寄來りける。江陰に籠りし勢、雑兵共
注
(*1)决 「決」の略体。物事をきっぱりと決めること。
(*2)秀包 毛利秀包 - Wikiwand
(*3)指遣 意味不明?
(*4)寨 とりで
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に都合二千七百人あり。此勢にては大軍に對し防ぎ戰ふべき樣もなかりければ、長政へ注進すべしとて、黒田惣右衛門、母里太兵衛、後藤又兵衛、衣笠久右衛門など相談し、強盛なる飛脚を五人つかはしける。其注進状にいはく、急度致注進候、敵夜中に川を越此方の陣所へ取懸候間、只今及一戦候、早々可被出御人数、とぞ書たりける。栗山四郎右衛門思ひけるは、只今一戦に及び候間、早々御人数を出さるべしと申入たりとも、是より長政の居城白川まで、日本路四里往来八里の道なれば、救の人数を指越るゝとも、只今の手筈にあひがたし。然れば此状救を乞ための注進状にはあらず。只最後の暇乞状なればとて、早々可被出御人數といふ文言をのけて、お手前は可安御心と、書直してぞ遣しける。其後やがて、敵川を越て寄来る。かねてより右議定したる事なれば、敵川を半渡る時、鐵砲を一度に一放づゝ打かけ、其跡より聲をあげて驀直(まつしぐら)に突てかゝる。敵も手いたく戰ひ
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ければ、身方討れ疵をかふむる者多かけり。されども身方爰を破られば、あの大敵、勝に乘ていさみかかり、纔の身方一人も生て歸る者あるまじと思ひしかば、一同に志を必死に極めて、勇猛をはげまし、命ををしまず防ぎ戰ひしかば、敵さしもの大勢なれども、たちまちに切崩され、川へ追はめられ、悉退散しければ、身方は不意に勝利を得、萬死を出て一生に逢ける。必死者は生とは、かやうの事をいふなるべし。然る處に長政此由を聞付、身方の難儀をたすけんため、速に馳來り給ひしかども、合戰既に終りければ手に逢給はず、扨も今日の軍、小勢を以大敵を追退け、勝利を得たる事奇代の働なりとて、甚感悅し、手を負たる者共の陣屋に悉自身見廻て、疵をとひ苦みを慰め、白川へ歸り給ふ。然る處に、其後正月十日の曉、夜中に白川城へ敵三萬ばかり寄來る。長政士卒に下知し、唐人を城下に引よせ、本陣より鐵砲を打かけ候はん時、塀うらの諸卒皆一同に鐡砲を一放し
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つゝ打て、即城戸を開き突て出べしと定らる。案の如く敵大勢塀下に寄來るを、本陣より鐡砲を打出しければ、塀の内にありし兵共も、皆鐵砲をはなしかけける時、城中の惣(*1)軍勢木戸を開き、一度に切て出、攻戰ふ。敵は城中より出て戰ふべしとは思ひよらざりしにや、不意を打たるにおどろきさわぎ、さしも大勢なりといへども、防ぎかねて見えし所を、長政士卒に先だつて自身働き、さんざんに攻戰て身方をいさめられければ、家老物頭を始て家臣共、我おとらじと勇み戰て、終に大敵を即時に追崩しける。此時長政の家臣分捕したる者多し。殊に黒田三左衛門、後藤又兵衛などもすぐれて高名しける。其後、都にて軍奉行衆評定有て、安國寺を使とし、隆景(*2)の居城開城府まで遣し、隆景も長政秀包も都へ引入られ候へ、各小勢なれば、城を其まゝ守り居て大敵を防ぐ事、身方の討るゝばかりにて益なし。敵を都近き廣みへ引出し、身方の勢をそろへて合戰すべしといひ遣はさる。長政の答に、
注
(*)惣 すべて、みんなの意。
(*2)隆景 小早川隆景小早川隆景 - Wikipedia