2020/05/14
勢、並小倉の毛利壹岐守等を牒じ合せ、中津川の城を攻べき由、内々其聞え有ければ、如水のたまひけるは、此上は力に及ばず、是義統運命盡たる所なり。さらば、大友ふるきよしみの者共の、いまだ集り來らずして、勢のつかぬさきにうち取べし。延引して兵共多くはせ集らばむつかしかるべし。かねて定めし日取の如く、いよいよ明九日辰の刻に打立べしと觸られける。中津川の城の留守には、舎弟黒田修理亮後號養心に、代官等相そへ、七百餘人殘しおかれ、感田(かんだ)の城に衣笠久右衛門後號因幡鐡砲頭高橋彦次郎、凡百五十人許。馬が岳の城に桐山孫兵衛後號丹波安崎助太夫、三百餘人、高盛の城に舎弟黒田兵庫助家人ばかり殘し置候へと、かねてより定めおかれ、九月九日辰の刻中津川の城を打立ち給ふ。如水は諸勢に先立ちて、中津川より一里半東なる、廣き原の少高き所に、床机(*)を立て、腰をかけ、総勢の備押(びおう 諸備え)を見給ふ。一番に母里太兵術一備(**)、二番に黒田兵庫助同圖書助一備、三番に
(*)床机:しょうぎ
(**)備:読み「び」。Wikipedia 戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊。
(167a2)
栗山四郎右衛門、黒田五郎右衛門一備、四番に井上九郎右門一備、五番に野村市右衛門、後藤太郎助一備、六番に母里與三兵衛、時枝平太夫一備、七番に久野次左衛門、曽我部五右衛門、池田九郎兵衛、黒田安太夫一備、都合其勢八千餘人、いづれも一備一備引分れて、しづかにおさせ、其行列を見給ふ。如水の本陣の勢千餘人、すべて九千餘人なり。さて如水士卒にいひきかする旨ありとて、廣野に皆々留めおき、高聲に仰けるは、今度上方にて治部少輔亂を起して、内府公に敵をなす由聞ゆ。治都少輔事天性智恵なき臆病者なり。其上総大將もなき寄合勢なれば、諸大將下知をうけず。諸人一致せずして、必敗軍すべし。殊に内府公は古今無双の良將にて、其下に屬する身方、皆すぐれたる武將勇士多く、心一同して内府公の御下知にしたがはゞ、必身方の勝利うたがひなき事、手に握りたる樣におもふなり。是に依てそれがし此度内府公に一味して、九州を平らげん
(167b1)
と思ふ故、先豊後へ赴き、彼國にある敵共うちしたがへて後、殘る國々を治むべし。豊後の城々多分は留守の事なれば、請取ん事いと安かるべし。就中大友義統本國を賜りて、頓(やが)て豊後へ下る由聞ゆ。太閤の時、人友事我等取次したりし筋目なれば、今度治部少輔方に與する事をやめさせ、降參させんため、上の關まで使を遣すといへども、同心せざる事愚痴の至、是非に及ばず。先彼を退治せんため出馬する也。義統事先年朝鮮において、大明人來る由を聞、敵をも見ずして迯(*)退たる臆病者なる故、豊後國を召上られ、毛利に預けられ、有かなきかの如くにて居たりしが、今度豊後に下り、我に對し旗をあげんとする事、片腹いたき事なり。此度出陣の士卒よく心得べし。義統は大臆病者なり。其下にある家人共も、類を以集り、上を學ぶ下なれば、皆臆病者と心得べし。大友が人數何満騎ありとも、此度の軍は百に一も負る事有まじ。強敵と思ひ猶豫すべからず。九州をかたはしよ
(*)迯:読みはトウ。逃げる/逃れる/立ち去る。の意。
り平げんと思ふ故、軍は此度に限るまじ。鎗、薙刀、刀、脇指の刄をたしなみて、大事の時用にたてよ。大友が人數をば手どらへにするか、むね打に打倒すべし。総じて鷹をつかふに、逸物(いちもつ)にても初より鶴をばとらぬものなり。先鷺(さぎ)を取飼て、其後鶴をばとらするものなり。其ごとく大友が人數をば鷺にたとへ、若き者共によくとりかひ、諸士にも手柄をさすべし。弱敵なれば棒にて雪をなづるごとく、何の造作もなく一時に打はらふべし。義統をば虜にせよ、彼を生捕たる者、直參(ぢきさん)又内によらず。たとひ下人にても、褒美として領地千石を與ふべし。各随分精を出し手柄を致すべし。其功により一廉恩賞を與ふべし。九州には手ごはき敵なし。豊後既に打したがへば、九州を治めん事、其勢に乘じて彌安かるべし。はや打たてとて、士卒を勵ましてのたまひける。是を聞し者ども、いづれも心いさみ強くなり、只今敵を手の中にとりひしぐやうに思ひける。是は大友の兵必弱
きにはあらざれども、士卒をいさめんための謀なるべし。右如水の床机に腰かけて下知し給ふ所を、後年如水原と號す。其日黒田兵庫助小一郎居城高森の城に着、一宿し給ふ。中津川より四里あり。翌十日高森より一里東、豊後高田の城の近邊を通り給ふ。高田は豊後速見郡にあり。竹中伊豆守重信が城なり。伊豆守は上方に在しかば、其子釆女(うねめ)正重次が方へかねて使を遣し、内府公御方に參るべき由をす丶め給へば、釆女同心す。是に依て今日又釆女方へ使者を遣し、如水只今東表へはたらき候。貴殿も兼約の如く内府方に属せられ候はゞ、いそぎ出陣せられ候へ、同道可仕よし申遺さる。此時釆女は幼少なり、家老共分別いまだ决せずや有けん。只今早速人數を指出し可申候へども、些(ちと)用意仕事候間、御跡より兵を出し可申候と返答す。如水聞給て、敵とも身方ともしれざる人の、跡より人数を出すべきとの申分を聞て、其ま丶打置通るべき儀にあらず。只今人質を出し候へ。然らずんば攻崩して通るべしとて、旗を立直し、
(168a2)
城の方に押行給ければ、城中より是を見て、はだせ馬にて追々に馳来る。中にも家老不破三太夫と云者來り、如水へ申けるは、今日早々人數を出し申べきを、釆女事所勞にて罷在、其上竹中家に今迄用来る旗を、存ずる子細候て仕かへ可罷出との用意にて延引仕候。追付釆女人数引具し可參と申す。如水聞給て、其儀ならば子細有まじ、跡よりやがて馬を出され候へとて、又人数をもとの道へ立直させ、東の方へ押行給ふ。釆安もやがて馳来る。如水釆女を引具し、其夜は富来の此方なる山の上、赤根嶺に野陣をぞし給ける。
大友義統は、九月十日の晩に、豊後國速見郡濱脇といふ浦に下着せらる。大友は古より豊後の國主にて、其上父宗麟(さうりん)の武威によって、豊前、筑前、筑後、肥後、日向の内まで、彼旗下に屬したりしかぱ、今に至ても舊恩をしたひ、昔の好をわすれざる者多し。昔の家人共多く浪人し、或は土民に成たるも有しが、
(168b1)
今度義統下着の由を聞傳へ、かしこ爰より馳集りて、既に大勢に及べり。其上土民百姓共、舊君の好みあるゆへ、義統の下向を悦び、兵粮をさヽげ馳走しける。先木付の城を攻落し、本城にして、方々の身方と牒じ合せ、黒田如水居城を攻破るべしと評議せられける。爰に昔大友家につかへたりし田原遠江入道泣紹忍、宗像掃部兩人は、義統流浪の後は、豊後國岡の城主中川修理大夫秀成の扶養をうけて居たりける。秀成初は毛利輝元、宇喜多秀家の方人(かたうど)たる故、紹忍掃部に鐵砲足軽を相そへて、義統に加勢す。義統悦限なし。昔のなじみあり、殊に老功の者なりとて、兩人を近付て軍事を談合せらる。黒田如水より上の關へ、使にていひおこせたる狀を見よとて出されける。紹忍掃部是を見て、如水の異見尤に存候。扨此御返事は何と罷成候ぞと申せば、秀頼公よりかたじけなき御意にて當國を賜り、其上浪人の問、数年輝元の恩を深く蒙りたれば、此度一命をすて丶其恩を報ぜんとおも
(168b2)
ふなり。此下知をうけて、今更變改も成がたし。只一筋に思ひ切たるぞど申されければ、兩人も尤とぞ感じける。木付の城に速見郡中の庄屋頭、百姓の人質を取入置ける。百姓此由を大友家人へ歎き、いかにもして取返し給り候へかしとぞ申ける。去程に大友方より木付の城の寄手には、宗像掃部を大將とし、木部(きのべ)山城守、大神(おほが)賢助、柴田小六、都甲(とがふ)兵部など云者を指そへ、本國なれば鄕人共多く馳加り、都合其勢五六千人ばかり遣して、城下に着とひとしく、攻支度をも用意せず、城塀を越て二の丸まで攻よせ、速見郡中庄屋頭、百姓の人質共を取返し、城中既に難儀に及びける。是に依て、木付の城番長岡越中守の家臣松井佐渡、有古四郎右衛門より、如水へ飛脚を以申越けるは、大友義統濱脇といふ浦(*)へ罷着候處に、昔の家人國人等(くにうどら)馳集り、俄に大勢になり、昨夜より當城を取卷攻候。随分城を堅固に持申候。御心得のため申上るの由、十日の夜赤根嶺(たうげ)へ告來る。如水聞て、
(*)濱脇といふ浦:現在の別府市浜脇。当時から温泉だった。
江戸時代の古戦場図『豊後國速見郡石垣原図』(17世紀)には
「海中出湯所々ニアリ 」 潮干ニハ人湯浴ス」と書かれている。
PS
『豊後国志』(ぶんごこくし)は、豊後岡藩(藩庁は現在の大分県竹田市)の儒医唐橋君山の遺著を伊藤鏡河、田能村竹田らが編纂し、享和3年(1803年)に完成した豊後国(現大分県)の地誌である。享和4年(1804年)に幕府に献上された。
石垣原合戦から約200年後の記述であるが、参考記事として取り上げよう。
注:原典は国立国会図書館デジタルコレクション000000772861 コマ数:37/185 45頁
濱脇温泉
朝見鄕濱脇村ニ在リ。海濱沙中ニ湧泉有。浴法甚奇。先發ㇾ沙瘗二全軀一。惟頭面出ㇾ之。泉漸浸洽。快浴一炊事。善治二疝瘕痼疾一。
瘗(エイと読む。うめる。うずめる。)
洽(コウと読む。うるおう。うるおす。)
疝(サンあるいはセンと読む。下腹部が痛む病気。はらいたみ。)
瘕(カと読む。腹の中にしこりができる病気。)
痼(コと読む。ながわずらい。長く治らない病気。)
疾(シツと読む。やまい。病気。)